RaIN-TOWn
雨が上がると、男たちは捜索を徒歩に切り替えた。
事務所にカチコんできた鉄砲玉を追い続けて二時間。一向に見つかる気配はない。
それもそのはずだ。鉄砲玉の顔を見たのは事務所で生き残ったたった一人。その人物の上げる男の特徴だけが頼りなのだから。
もとより手がかりが少ない上に、降り続いた豪雨のせいで痕跡は完全に途絶えてしまっている。
「とにかく見つけえ言うて、そんでどないせぇっちうねん。わしらじゃどないもでけんやろが……」
ツレに聞こえないよう、男は小声でぶうを垂れた。
追っている相手はたった一人で乗り込んできて、事務所に詰めていた十五人の内、一人を残して全員を皆殺しにするような化物だ。鉄砲玉などという呼び方では生易しすぎる。
実際、彼は鉄砲玉を探している『ふり』をしているだけだ。内心では見つからないに越したことはないと思っている。
ツレの兄貴分はずいぶんと張り切っているが──なにせ自前の消音器付きの拳銃まで持ち出すほどだ──所詮、末端構成員の自分たちは組から大した恩恵も受けられないのだ。命と手柄を天秤にかける方がどうかしている。
踏切の前で彼らは足を止めた。信号が交互に赤く点滅し、電車の通過を警告する。
「なんや……?」
男は目を細めた。
信号の下、なにか黒い塊を胸に抱いた少女が立っている。明滅する赤灯に照らされる姿はまるで幽鬼のようだ。
「丁度ええ……」
目を細めたまま、いやらしげに頬をつり上げる。
そう丁度いい。あのガキに『怪しい奴はいなかったか』と適当なことを訊いて、働いているように見せかけよう──彼は怠けることにかけては天分があった。
少女は亡霊のように希薄で不気味だったが、男にそれを気に止める繊細さはなかった。遮断機が上がりきるのも待たず、少女へ悠々と歩いていく。
脇を通り過ぎようとした少女の肩を乱暴に引き留め、馴れ馴れしく手を回して顔を近づける。
「なぁ、ねえちゃん。ちィっと訊きたいことがあるねンけどな。この辺で怪しい野郎を───」
彼はそこで言葉を発することを忘れる。何かの違和感を感じたからだ。
「……?」
彼女が赤かったのは信号に照らされていたからだ。では何故、彼女の頬は今もまだ深紅の色を保っているのか。そしてこの錆びた鉄の匂い。愚鈍な彼にもその匂いの正体ぐらいは分かった。
「おい、ねえちゃん。その血───」
「こらカズぅっ! なに油売っとンじゃボケが! とっとと来ンかい!」
先を歩いていた兄貴分が大声で叱責してくる。
自分のものではない血に汚れた少女。このことを兄貴分に伝えるかどうか、彼は迷う。
追い立てるように再び踏切信号が鳴り始めた。
逡巡は短く、彼は兄貴分に一声返して、少女から手を離し、遮断機をくぐった。
少女は鉄砲玉と関わりのある者かもしれない。だが、それを知ってどうなる。手がかりを見つけた程度では何の手柄にもなりはしない。
それに血の気の多い兄貴分のことだ。先走って余計なことをしだしかねない。厄介事には首をつっこまないに限る。
それが彼の結論だった。怠け者と臆病者だけが下せるもっとも正しい解答。
定石であるその答えが、大きな間違いであったことを彼が思い知るのは、ほんの少し先の話になる。
† † †
まばらに散った白雲。真っ青な空。
ルノは学校の屋上に寝転がって、蒼穹を見上げていた。
秋の空は高く、風は冷たく澄んでいる。腫れの引かない右頬に冷たい風が心地よかった。
今は昼休みだが、ここを利用しているのはルノだけだ。
なぜならここは立ち入り禁止で、出入り口には鍵がかかっている───はずなのだが、ルノは手先が器用でいつもヘアピンを持ち歩いている。
理由は、まあそういうことだ。
一ヶ月ぶりに通った学校はそれなりに楽しかった。授業でついて行けないところはなかったし、休み時間に興味本位で話しかけてくるような馬鹿もいなかった。
ただ、人目があって煙草を吸えないのが辛くはあったが。
昼休み、一服を終えて見上げた空は、初めて見たもののように美しかった。
ルノはそのまま大の字になって、休み時間をまるまる秋天の観測に費やすことにした。
紫煙は風に乗って去っていき、陽光は柔らかくリノリウムを照らす。
ルノは雲から顔を出した太陽を遮るように手をかざした。
細い輪郭がくっきりと浮かぶ。銀のカラーリングに虎を模した刻印。小振りではあるが少女の手にはまだ余る。
ルノは宝石のようにそれをかざして、煌めきに目を細めた。
「もうちょっとだけ、頑張ることにしたよ、ウーフー」
もうどこにもいない彼に話しかける。銀色の拳銃は硬質の輝きだけを返した。
───昼休みの終わりを告げる鐘の音。
ルノはまだ微睡んでいたくて、頑張ると言った早々、午後の授業をさぼろうと目を閉じた。そこを小さな舌にざらりと舐められる。
「……ミルクくさい……」
気分を台無しにされたルノが顔を起こすと、翠緑石の瞳と目が合った。黒い子猫は主人から飛び降りると、
「にぃ」
と一声鳴いた。
つい一週間前までは自力で動くことも出来なかったのに、身体を洗って適当にミルクを与えただけで、子猫はすくすくと育ち、そこらを歩き回るほどになった。
「もー……。黄昏(たそが)れてるんだから、察してよね」
ルノは起きあがって吸い殻を拾い上げる。まとめて排水溝に押し込んで、証拠は隠滅。
「じゃあ、学校終わったら迎えに来るから、おとなしく待ってるんだよ」
「にー」
律儀に応えてくる子猫に手を振り、ルノは階段を駆け下りていった。
† † †
父親が死んでいた。
敷きっぱなしの布団にうつぶせて、蛙のように死んでいた。
ルノは腫れた右頬に触れ、自分でも簡単すぎると思うほど、親の死を受け入れた。
死体のそばにはいくつもの酒瓶が転がっている。眠っている間に殺されたのか。部屋には争った形跡はない。ただ、元々汚れていた部屋はひどく荒らされていた。箪笥や押し入れの中まで引きずり出されている。まるで隠れている誰かを捜し出そうとしたかのようだ。
ルノは理解する。
あの夜、やはり見られていた。そして尾けられていた。
「困ったな……。わたしも殺されちゃうのかな」
関係のない親までこうも簡単に殺すのだ。当事者である自分は、人として殺してもらうことすら許されないかも知れない。
「やだな……。まだ死にたくない。……だって───」
彼が言ったから。変えたいのなら自分で変えろ、と。
死にゆく間際の会話の中、彼は言った。
───糞のようなこの世界で、気に入っているところが一つある。何をするのも自由というところだ。無才でも無力でも、全ては自分の意志で決められる。生きるも死ぬも、己の自由だ。生きたいなら生きろ。死にたいなら死ね。神様は優しくないが、放任主義が信条だ。
「…………」
彼は言った。この世は自由だ。しかし障害は無数にある。それを変えられるのは、結局自分の力だけだ。
あの日、彼と出会い、ルノは初めて生きたいと思った。
その願いが断たれようとしている。
だったら───
「……そうか、うん。簡単なことだったよね」
生きることを邪魔する者がいるのなら、自分を殺そうとする者がいるのなら───そいつらみんな消せばいい。
足下にすり寄る黒猫が、甘えた声を発する。それはまるで処女をいざなう悪魔の囁きだった。
† † †
「兄貴、すんまへん。わし、ちと便所ですわ」
「お? んなら俺も済ましとくか」
ネオン街からそれた薄暗い裏道に入り、二人のヤクザは薄汚れた壁に小便を垂れ流しだした。
アンモニアを含んだ蒸気が腐敗した街の空気に混入していく。
「ふ〜、……なかなかうまくいきませんなぁ」
「せやなぁ、けどここで俺らが見つけて仕留めたら、一躍幹部入りやで」
「せやけど、兄貴。俺らであの化けもんの命(たま)ァ盗れると思いますか? 相手は一人で事務所に乗り込んでくるようなヤツでっせ」
「それがどないしたっちうねん。なんぼ強うても先に撃ってもたらこっちの勝ちやろが。殺られる前に殺ったったらええんじゃ」
兄貴分は嘯いて、弟分は『さすがは兄貴』と弁鱈を使う。
夕飯時に飲んだビールがずいぶんと溜まっていたようだ。話題が尽きた男たちの間には、小便が壁を打つ音だけが響く───。
「こんばんは」
背後からかけられた声は、子供の音色。
「……あ?」
小便を出しつつ、首を後ろに向けた弟分の表情が凍る。
「お、おまえ……!」
振り向きたくとも、出した小便は途中で止まらない。
「誰や? おうカズ、お前の知り合いか?」
事情を知らない兄貴分は怪訝な顔をするばかりだ。
「『お父さん』を殺したのはおじさんたち?」
「? おいカズ。なにを言うとるんや、このガキは」
「ん、それは別にどうでもいいんだけどね。おじさん、わたし、おじさんに教えて欲しいことがあるんだ」
暗闇に輝く銀の銃。細い片手に提げたそれが水平に起き、兄貴分の背中に狙いをつける。弟分はそれを見て目をむいた。
「お、おいおいおいっ。やめろや、おい、撃つな! 撃ったら殺すぞ!」
「アホ、なに慌てとんねん。あんなもんオモチャに決まっとるやろが……」
「兄貴、違いまっせ! このガキは……クソっ。ションベン止まらへんっ。兄貴!
撃ってください! 早よあのガキ撃たな───」
「撃ったら殺すの? 撃たなくても撃つの? じゃあ、撃ち殺さなくちゃ。『殺られる前に殺ったらいい』んだよね♪」
ルノは楽しそうに言って、なんの躊躇もなく、銃爪を引いた。
ガン、と硬い弾音と閃火。空薬莢が鈴のように転がり、焦げた銃口からうっすらと硝煙が昇る。
兄貴分はニヤリと笑みを浮かべた。
「ほら見ぃ、やっぱりオモチャやないか。嬢ちゃん、BB弾で人が殺せると思たら大間違いや……ぞ?」
兄貴分は自分の竿を握ったまま、斜めにくずれ落ちた。こすれた壁に鮮血の筆跡がずるずると描かれていく。
そのまま自分が作った水溜まりに顔を沈め、男はぴくりとも動かなくなった。
「あ、兄貴ぃっ!?」
小便は止まったが今度は腰が抜けてしまった。弟分は生暖かい水溜まりにへたり込み、ルノから遠ざかろうと足をバタつかせる。その目にはもはや恐怖以外の感情はない。
「おじさんは生きたい? それとも死にたい?」
銀の拳銃が男の眉間を捉える。男は光に照らし出された害虫のように頭を隠して懇願する。
「こ、殺さんといてくれぇっ。頼む、殺さんといてくれぇぇっ……!」
「だったらさ、どうすれば長く生きられるか考えてみようよ」
さとすように微笑んで、ルノは質問を繰り返した。
「おじさん、わたし『おじさんに教えて欲しいことがあるんだ』」
† † †
男から聞き出せるだけの情報は聞き出した。
戦利品は、財布に入っていた紙幣が十数枚と、マイルドセブンが一箱、そして黒い拳銃だった。
銃口の延長に単一電池みたいな筒が付いた大きな銃だ。武虎の銀銃と違って弾もたっぷり入っている。ただ、使いこなせるかどうかは自信がなかった。
銀の拳銃をたった数発撃っただけで、もう手が痺れてしまっている。映画の主人公はこれよりもっと大きな銃を片手で乱射していたのだが、どうやら現実にはうまくいかないようだ。今度からはちゃんと両手で構えることにしよう。
ちなみにさっきの脅しも映画の真似だ。先に一人を殺し、自分が本気であることを伝え、相手に口を割らせる。全部映画でやっていた事を真似しただけなのだが、思いの外うまくいったようだ。
映画ではそのあと口を割った方も殺してしまうのだが、気前よくいろんな事を教えてくれた男は見逃がしてあげようと、ルノが銃を降ろした瞬間、兄貴分の懐から銃を引き抜いたので、仕方なく心臓を打ち抜いた。念のためこめかみも撃っておいた。
折り重なるように斃れた男たちをまたぎ越え、ルノは路地裏を後にする。
彼女に付き従うように子猫が駈け寄り、肩に飛び乗った。
「うん……。急がなきゃね」
やらなければならないことは膨大にあった。
生き残るために。自由であるために。
───彼と繋がっているために。
† † †
「こいつは武虎の仕業じゃないな」
天井に張り付いた血痕を見上げ、くたびれた外套を羽織った中年男はそう独りごちた。
「は? 武虎じゃねェって、どういうことスか」
チュッパチャップスで片頬をふくらました青年が怪訝な顔をする。
「武虎が次に襲えと命じられたのはここじゃねェ。なにより、ヤツはこんな汚い殺し方はしねえ。そよ風のように近づき、稲穂を刈り取るように殺す。それがヤツの殺り方だ。こんな猛獣が暴れ回ったような現場はありえねェんだよ」
荒れ果てた事務所には白いテープでいくつもの人型が枠取られている。遺体はすでに運び出されているが、のっぺらぼうな輪郭がかえって事件の凄惨さを物語っていた。
「あ、王(ワン)さん。遺留品勝手に動かすと田さんに怒鳴られるっすよ」
「黙ってろ。それから仕事中は中井警部と呼べと言ってあるだろうが」
「じゃあ、俺のことも『おい』じゃなくて、ちゃんと高杉刑事って呼んでくださいよ」
「やかましい。ヤニも呑めねェ小僧は『おい』で充分だ」
遺留品を識別する札を指先でいじりながら、中井警部はもう一度現場を俯瞰(ふかん)する。
壁や天井にも飛び散った大量の血。鼻につく硝煙の残り香。遺体の倒れた位置。それらからこの事務所で起こったことは容易に想像できた。
無傷の扉は決して蹴破られてなどいない。それどころか歓迎されるかのように開かれたはずだ。
だが、それから起きたことは阿鼻と叫喚の地獄絵図だ。
バラ撒かれた銃弾にヤクザたちは次々と倒れていく。
銃火を前に逃亡し、背中から打たれる者。ドス一本で特攻を慣行し、血噴のダンスを踊らされる者。涙ながらに命乞いをし、腸を床にぶちまける者。
わずか数分の間に、二十人が詰めていた暴力団の事務所は、さながら血の風呂と化した。
それから三時間。ヤクザよりも早く警察がこの場を確保し、滞りなく鑑識の撮影も済んだ。
誰もいなくなった殺人現場で、こうして彼らは『本職』の仕事に時間を費やせるわけだ。
「しっかし、こんなアクション映画みたいなこと、現実に出来るモンなんスねえ」
【立ち入り禁止】の黄色いテープを踏み越え、高杉はくるりと事務所を見回した。
どこか楽しげな彼とは対照的に、中井警部は不機嫌に顔を曇らせている。
「ひどいな。こいつは『ひどい』殺し方だ。まるで素人の所行だ。殺しの本分ってヤツをまるで分かっちゃいねェ。殺人とミンチ作りを勘違いしている大馬鹿野郎だ。間違いなくこれをやったのは素人だ」
「素人って……王さ───中井警部。ただの素人がヤクザの事務所を一つ吹っ飛ばしたって言うんスか?」
「『ただの素人』とは言ってねェ。数メートルの距離を一息に詰めるだけの跳躍力、完全な闇でも動き回れる暗視力、回避性、敏捷性、柔軟性、膂力、胆力、頭のネジの外れ具合。───その全てがぶっ飛んでいて、なおかつ効率的な殺し方を知らないド素人ってとこだ」
「……それはもうヨソの星の人なんじゃないスかね? 惑星ベジータからの亡命者とか」
「………お前の冗談は心底くだらねェな」
中井警部は灰皿に残っていたシケモクをふかし始めた。
「この銃火血劇をやったのが誰だかは知らないが、呉葵組の奴らもいい加減本気で潰しにかかってくる頃だろう。奴ら、藍染組を襲ったのと同一人物と思いこんでるはずだからな。上の連中は怒り心頭に違いない」
「しかしこんな化け物。ヤクザごときが束になったぐらいで勝てるんですかね?」
「阿呆。俺たちに武虎がいたように、奴らにも殺し専門の仕事人がいるってことだ。おそらく武虎をやったのもそいつだろう。あの兇手が十人そこそこのヤクザにやられるはずがねェからな」
「いや、でも、武虎が死んだとはまだ決まったワケじゃ……」
「死んでる」
中井警部は言い切った。
「武大人(ウーターレン)があいつに命じたのは、呉葵組傘下の藍染組の始末。そして『確実なる』帰還だ。もし無事に帰還できないほどの傷を負ったのなら、あいつは死ぬ。絶対に死ぬ。死んで白虎会とのつながりを完全に絶つ。あいつは正真の虎だが自分で鎖につながれた哀れな狗でもある」
武虎の過去を知らない高杉は、中井警部の表情から推測するしかない。
「………。こう考えるのはどうだ? 武虎は藍染組を消すのには成功したが、自力では逃げ切れないほどの傷を負った。だが、捕まってはいない。でなきゃやつら今頃は白虎会に戦を仕掛けてきてるはずだからな。それが来ないって事はどこにカチコまれたのか確証がないって事だ」
「武虎は捕まっていない。だけど、奴らを消していっているのは武虎じゃない?」
「そういうこった」
「じゃあ、やはり武虎は……」
「その内どこぞで身元不明の腐乱死体として上がるだろうな」
顔を曇らせた高杉を尻目に、中井警部は考察を締めにかかる。
「はてさて。俺たちの計画に乗っかって互いを潰し合わせようとしているヤツがいるのか。それとも全く別の勢力の思惑か……。便乗犯なら白虎会がやったように見せかけないのが腑に落ちねェ。他勢力が係わってきてるのなら、呉葵組の親、龍神会が動き出してるはずだ。やつら、どういうワケか自分たちだけで始末をつけようとしてやがる」
「……単に若頭の組長襲名が控えてるからじゃないですか?」
「そうかもしれんし、違うかもしれん。だが殺戮はこれからも続く、それだけは確かだ。死人が出るぞ、百人単位でだ。わんさか死ぬぞ。田の野郎は大変だ」
どこか楽しそうに謳う中井警部を前に、高杉はあきれたようにうめいた。
「いよいよ人間の所行じゃなくなってきたッスね……」
「化物なんてのはそこいら中にいるものだ。先達の技術や経験の蓄積を鼻歌交じりで飛び越えていく、生まれついての社会不適合者ども」
そこまで言ってシケモクを灰皿に押しつける。
「くく、案外、武虎の亡霊が現世を彷徨ってるのかも知れんぞ」
にやりと笑って、中井警部は遺留品のペットボトル茶を飲み干した。
「不味い茶だな。日本人は舌が腐れてやがる」
「……。王さんの冗談も充分笑えないッスよ」
高杉は疲れたように嘆息して、『偽造された本物』の警部と刑事は惨劇に対する考察を終えた。
† † †
ラブホテルの一室。
ルノの帰りを待っていた黒猫は、扉が開くと同時に主人の元へと駆け寄った。
「ただいま」
ルノはビニール袋から子猫用の缶詰を出し、百円ショップで買ったアーミーナイフで開けていく。小皿にほぐし出してやると、黒猫はぐちゃどろの離乳食に顔をつっこんだ。
ペチャペチャと音を立てて食べる猫の背をひと撫でし、ルノは丸いベッドに腰掛けた。
ふぅ、と息をついて、そのまま仰向けに寝転がる。
「疲れたー……」
背中に当たる硬い感触に、手製のホルスタごと銃を外す。
革ベルトを縫製して作ったそれを腰に提げて、上からパーカーを纏えば、外目には二丁の銃を吊しているようには見えない。偽装としては上出来だろう。
ごとりと重い音を立てて、スタンドライトの隣に銃が乗る。振動でコンドームの入った皿が跳ねた。
「うぅ、痛い……」
射撃で痛めた手首がずきずきと鈍痛を訴える。薬局で買ってきた湿布を適当に貼り、匂いを嗅いで、ルノはうぇっと顔をしかめた。
食事を終えた黒猫が飛び乗ってきて、そのまま膝の上で丸くなる。
「あ。そう言えばあの人どうしよう」
ルノは一緒にこのホテルに入った男のことを思い出した。
ラブホテルに一人で泊まることはまず無理だ。ほとんど人を用いないシステムとはいえ、管理人はちゃんといる。
演技で年をごまかせば、カプセルホテルぐらい泊まることは出来たが、それだと黒猫を連れて入ることが出来ない。
仕方ないので街に出て男を誘った。こちらの提示した料金で男はほいほい付いてきた。黒猫は胸の中に隠し、部屋に入ったところで後ろから銃で殴りつけて昏倒させた。
後は風呂場まで引きずっていき、余った革ベルトで縛り上げた。男が起きた気配は無い。なぜなら風呂はガラス張りで、外からは見え放題だからだ。
「ま、いっか。どうせ朝には出て行くし」
特に悩むことなく結論づけると、ルノは気絶した男の前でシャワーを浴び、ベッドでぐっすりと眠った。
† † †
呉葵組若頭・鷲尾笙山は、捜索から帰ってきた組員をねぎらい、成果を聞き、渾身の力で殴りつけた。
血を噴きながら謝る男の頭をわしづかみ、ガラス机へ叩きつける。
「見つから、へん、いうのは、どういう、ことや? あァ、コラ?」
度重なる衝撃でガラスとひたいが完全に割れた。
痙攣する男に唾を吐きかけ、残りの組員を睨みつける。
組員たちは冷や汗を流しながら、それでも不動を崩さない。
「わしは三日後に襲名式をひかえとる。龍神会の幹部連も交えてのでかい式典や。その大事なときにカチコまれて、落とし前も着けられんのはどういう事や、言うとるンじゃボケが!」
鷲尾は倒れた男を踏みつけ、骨組みだけになったガラス机がひしゃげて潰れる。
「ヤツは追われとることを逆手にとって動いとる。わしらが探しに出とる間に、手薄になった事務所を狙って潰しにきよるンや。今朝方、白檀のところもやられた。これで併せて四つや。四件の事務所がたった二週間の間に潰されてもとる。もう龍神会に隠し通すのも限界や」
憔悴しきった様子で鷲尾は眉間を押さえた。そのまま野獣がうなるような声で、ある男の名を呼んだ。
「藤堂……」
「へい」
地に着くほど長い外套を羽織った長身の男が、鷲尾の背後より現れる。
「分かっとるな、藤堂。わしらはこれ以上舐められるわけにはいかんのや」
「へい。流れ者のあっしを取り立ててくださった先代の大恩、この骨肉をもって返させていただきやす」
よどみなく江戸言葉を話す男は、二つに割れた組員たちの間を悠然と歩いていく。
組員が彼に向ける視線は決して好意的なものではない。
猜疑。嫉妬。嫌悪。畏怖。
組の中でも古株でありながら、いまだによそ者のような扱いを受ける。だが藤堂は弱卒の視線など意に介せず、重い扉を指先で開け、同じ足取りで事務所を去った。
† † †
黴臭い薬棚の匂い。
廃墟のようなビルの中にある、古ぼけた薬屋。ルノはそこを訪れていた。
ヤクザから聞き出した情報では、この店にルノの欲しいものがあるらしい。
ゴミなのか骨董品なのかよく分からない物体がそこら中に転がっている。足の踏み場もない雑多な空間に、ルノは足を踏み入れた。
呵責なくガラクタを蹴り飛ばしながら自分で作った道を進んでいく。
「───どんな薬(ヤク)が欲しいんだ?」
店の一番奥、薄汚れたショーケースのそのまた奥に、前歯の出っ張った男が座っていた。その体格は病的に小さい。
ルノは得体の知れない軟体を踏みつけたりしながら、小さい男のところへ向かった。
「ここを知ってるってことは、前田のところのシャブじゃ満足できなくなったかい? ま、安心しな。ここでそろえられない薬はねえ。どんな天国にでも地獄にでもトリップできる。請け合うぜ」
小男は得意げに口弁を垂れた。気取ったその仕草は滑稽以外の何者でもなかったが。
「欲しいのは、薬じゃない」
ルノの返答に、男は露骨に顔をしかめた。
「薬はいらねえ? じゃあここでなにを買う気だ。そこらに落ちてるゴミくずか?」
「銃弾」
短く答えて、ルノは腰の二丁拳銃をガラス棚の上に置いた。
「この銃の弾をあるだけ頂戴」
少女が無造作に引き抜いた銃に、男は驚いて席を立った。
「べ、ベレッタ……?! こっちは見た事ねえ型だがトーラスの亜流か……?! い、いや、そんなことより、テメェこんな銃をどこで───」
「お金はこれだけある」
ルノはくしゃくしゃの一万円札を十数枚おいた。中学生が持つには高額すぎる金だが。
「……………。は……ははっ。なんだそりゃ。それじゃダースケースにもなりゃしねェぞ」
金額を見て落ち着きを取り戻したのか、男は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
弾の値段も知らない子供ということに気づいたらしい。この店の弾代は、種類にもよるが、平均して一発一万。表相場の約二〇〇倍だ。ぼったくりもいいところだが、それが日本で銃の取引をするときのいたって普遍な値だ。
「それは困る。最低でも五百発は欲しい。弾倉も添えて」
「ごひゃ……ボケたこと抜かしてるんじゃねェ! うちの在庫全部さらってく気か!」
小男はショーケースに身を乗り出し、目の前の女が相当の上玉であることに気づいた。幼くも男を誘う色香。猫目の彼女から漂う空気は小男の獣欲をかき立てた。
「か、金はまったく足りてねェ。が、不足分を補う方法はあるぜ」
下から上へ視線で舐め上げながら、男は言った。
「…………。……こういうこと?」
ルノは服の前を開いてみせた。白い肌、細い鎖骨、慎ましやかな双丘が順にのぞいていく。
年甲斐もなく、男はのどを鳴らした。
「物分りがいいじゃねェか……。今日日(きょうび)のガキは貞淑って言葉を知らんのかね」
心とは裏腹のことを言いながら、小男はショーケースに跳び乗り、ルノの服の中を太く短い指でまさぐった。
「いいけど、その代わり……」
「ああ、わかってるわかってる。弾だろ? 俺を満足させられたらな」
荒く息をつきながら、男はルノの耳に舌を這わせ───られなかった。
「と思ったけど、やっぱりやめた」
「…………で、でめぇ……」
ぶるぶると震えながら小男は自分の股間を見やった。そこには少女の白い手が添えられている。玉を握りつぶさんばかりに。
「お散歩しようか?」
ぐいっと引っ張る。男はたまらず悲鳴を上げて、ひょこひょことルノについてきた。
「弾はどこ?」
「ぎひぃ……、い、今ならまだ許してやるぜ。おとなしく手を離して続きをさせりゃ───」
たわけたセリフをまだ続ける男をサルまわしよろしく引き連れながら、ルノはてきぱきと弾薬を集めていく。ショーケースの裏に頑丈そうな革鞄があったので、それに詰めていくことにした。
「あ、お金は要らないよね」
ルノはガラス台のボロ札をつかみ、パーカーのポケットに押し込んだ。
「く、くそガキがァ……こ、こんなことをしてただで済むと───やめろやめて潰れちゃぎゃあ」
失神した男を残し、ルノは外で待っていた子猫を連れて、汚い薬屋を後にした。
† † †
藤堂は不思議な少女に出会った。
大人びた子供のような、子供じみた大人のような。表情次第でどんな女にでも化けられる、生まれついての役者のような少女だ。
荷物は重そうな革鞄が一つ。従者は黒い子猫が一匹。パーカーにキャップという少年のような出で立ちで、雨上がりの灰色街をふらふらと歩いていく。一見するとどこにでもいる家出少女にも思えた。
「お嬢さん、どちらへお出でで?」
長身の影に視界を遮られた少女は顔を上げて、そこに目当ての顔がないことに気づき、もう頭二つ分、上を見上げた。
「? おじさん誰?」
「こいつは失礼。あっしは藤堂と申す者でやす。お嬢さんの荷物があまりにも重そうに見えたもので、よければ荷役として使っていただければと馳せ参じた次第」
「ニヤク? 難しい言葉使うんだね、藤堂さん。それにヘンなしゃべり方」
珍獣でも見るかのように笑った後、少女は藤堂の申し出を受け入れ、鞄の吊し紐を手渡した。
「ではお供させていただきやす」
「はい、お願いしやす」
くすくすと笑って、少女は鞄を渡してきた。
革鞄を担ぐと、それなりの重量を感じる。少女の細腕でこれを運ぶのはさぞかし大変だったろう。
藤堂は荷を肩にかけなおし、前をゆく少女に随行した。
朝靄の残る大通り。人気(ひとけ)はないに等しい。重い荷から解放された少女は軽い足取りで湿気ったアスファルトに靴音を刻み、黒い子猫は少女の足にじゃれつくようにその間を交互にくぐっていく。
藤堂はなにか眩しいものを見るかのように目を細め、その表情を隠すように長方の眼鏡を押し上げた。
「藤堂さんはヤクザさん?」
唐突な少女の質問に、藤堂は特に驚くこともなく答えた。
「へえ。わかりやすか? ヤクザと呼ぶのも憚られる下っ端ではありますが」
「ヤクザは悪い人じゃないの? 親切なことしていいの?」
「はは、こいつぁ手厳しい」
藤堂は少し寂しげに笑った。
「元々やくざは警察組織ができあがる前の自警団のようなものが始まりでして。町内の皆さんを厄難から助け、揉め事をまとめ、祭り事を行う際には人手を出す。その代わりとしてテキ屋なんぞをシノがせてもらう。それがやくざ、それが極道というものでさ」
少女からは日の影になって藤堂がどんな顔をしているのか分からない。ただ淡々と藤堂は言葉を並べた。
「それが今や、ヤクザは暴力団と呼ばれるまでに堕ちてしまいやした。シャブ、女、銃、臓器売買。これじゃあもう『極道』なんて呼べねえ。ただの『外道』でさ……」
そこまで話して、藤堂はふと我に返った。
歩きながら、少女は猫目を丸くして不思議そうに藤堂を見上げている。
「っと、お嬢さんにはつまらん話でやした」
「ん、そんなことないよ。勉強になりました」
少女はぺこりと頭を下げ、藤堂は反応に困って頭を一掻きした。
そうして二人と一匹はふたたび歩き始める。
しばらく無言で朝の街を歩いていたが、太陽がビルの間から顔を出し始めた頃、
「お嬢さん」
「ん?」
重い口調で藤堂は言った。
「お嬢さん……、『ここらで退いちゃァくれませんか』。今ならまだ引き返せる。あっしはあんたを斬らずに済む」
「……………」
少女は立ち止まって、驚いたような怯えたような───そんな表情をすることは一切なかった。
歩みすら狂うことはなく、平常として子猫をじゃれつかせている。ただ、終始浮かべていた笑みを上弦月のように凍てつかせて、問うた。
「ここで、する?」
「…………退く気はないんでやすね。あるいはハナから『そのつもり』で乗ってきやしたか」
「それをいうなら藤堂さんもだよ。気づいていたんでしょう。最初から」
「あっしは鼻が利くもので。お嬢さん、あんたからは三つの匂いしかしてこねえ。石鹸と硝煙、そして血の匂いだ」
忌々しげに吐き捨てる藤堂に、少女はくすりと笑った。
「藤堂さんはね、口から死と臓物の匂いがしてくるよ」
「……。そこまで嗅ぎ分けるたぁ、あっしより鼻が利かれるようだ」
「それで、どうする? ここでするの?」
「やめときやしょう。日の出の殺しは味が悪すぎる」
「人殺しに味なんて関係ないよ。でも、久しぶりのお日様で気持ちがいいから───ズタズタに殺し合うのも楽しいかもね」
ニィと猫のように口端を広げる少女に、藤堂は反射する眼鏡に表情を隠したまま、憮然と言を発する。
「……イカれたふりをする必要はありませんぜ。アンタは生まれついての凶だが、決して鬼ほど醜くはねえ」
「わたしがマガツなら、藤堂さんは何?」
「走狗でさァ。主人が間違った方向へ進んでいるのを正すこともできない犬畜生。それが今のあっしでさ」
「ふーん……」
少女は分かったような分からないような曖昧な返事をした。
「んー……、ここじゃわたしの方が不利だから、やらないならそれでもいいや」
受け取った鞄を、少女は重そうに担ぎ直した。
「じゃあね、藤堂さん」
「ではまたいずれ。近いうちに」
藤堂は長外套の裾を翻し、もと来た道を戻っていく。
背後で黒猫が鳴き、銃を構える気配が伝わってくる。
だが、少女は軽く息をつき、銃を納めて去っていった。
藤堂は懐に隠した長ドスから手を離し、去っていった。
そこからはもう、血臭は消えていた。